是川銀蔵
- 同意語
- 最後の相場師 , 是銀
関東大震災では、復興需要を見越し、バラック建築用トタン板で巨利を博し、儲けの半分を大阪市に寄付するなど時には目の前の金をドブに捨てることも厭わない信念と人間味にあふれた生き様から「最後の相場師」とも呼ばれる。
投資理論を独学で学び「資本主義は崩壊せず」との信念から、1933年、大阪堂島に「昭和経済研究所」を設立、相場の研究・指導にあたるとともに、朝鮮半島に渡り、是川鉱業を設立し、従業員1万人の朝鮮有数の大企業のトップに立った。
戦後は泉北ニュータウン開発に伴う土地投機で株式相場への復帰資金を攫み、1976年の日本セメント、1979年の同和鉱業、1982年の不二家、1983年の丸善石油、平和不動産、1981年から1982年の住友金属鉱山の株買い占め、仕手戦で名を馳せ、1983年には高額納税者番付で申告額28億9090万円で全国1位となった。
最晩年の1991年には所得税6億8000万円を滞納したため、自伝の印税を国税局に差し押さえられるなど、自伝にある通り「株の利益は一銭も残っていない」とされる。
是銀の投資5ヶ条
- 銘柄は人が奨めるものではなく、自分で勉強して選ぶ
- 2年後の経済の変化を自分で予測し大局観を持つ
- 株価には妥当な水準がある。値上がり株の深追いは禁物
- 株価は最終的に業績で決まる。腕力相場は敬遠する
- 不測の事態などリスクはつきものと心得る
是銀のカメ三則
- 銘柄は水面下にある優良なものを選んでじっと待つ
- 経済・相場の動きからは常に目を離さず自分で勉強する
- 過大な思惑はせず、手持ちの資金で行動する